リベラルアーツ&サイエンス教育ブログ

2019.03.19

  • 国東農業研修

鳥居橋、広瀬水路 古谷凪沙(2018年実習-22)

おふじを後にして宇佐市の鳥居橋へ。ここで、安心院支所で働いていらっしゃる松木さんと合流。松木さんは近づく安心院ワイン祭りの準備で忙しい中、何とかスケジュールを開け、ない時間を作って私たちの研修に同行してくださった。

 

初めに解説してくださったのは鳥居橋だ。大分県には石橋が多くその中でもこの鳥居橋は大きくきれいだと有名で、県指定有形文化財に登録されている。この石橋は大正5年(1916年)に作られたもので、作られて以来手が加えられていないそうだ。洪水がおこっても耐えることができたその秘密は橋を支える柱にあった。橋の上から恐る恐る下をのぞき込むと、下流側はまっ平である柱の側面が上流側ではとがっており、上流に頂点を向けて柱が三角形になっていることがわかる。これが全方面平らな四角い柱だと洪水の時に流れてくる木やものが引っ掛かり橋に大きな負担がかかってしまうため、三角形にすることで障害物を受け流しているのだそうだ。

  • 鳥居橋の周りだけまるで外国の風景のよう。この美しい佇まいから別名「石橋の貴婦人」とも呼ばれている。撮影日時: 2018:09:06 11:13:09
  • 鳥居橋の上から下を見下ろし川に吸い込まれそうになる。普段は気づかない柱の形の違いに驚く。撮影日時: 2018:09:06 11:16:16

研修前後の大分県はゲリラ豪雨や夕立がひどく、また本州では巨大な台風が接近していたため全国各地で洪水の被害がみられていた。鳥居橋の下の岩場には水が明らかに届かないような不自然な場所に自転車が1台引っ掛かっており、水の異常な増水の恐ろしさとそれに100年も耐え続けてきた石橋の強さ、その強さを作り出した工夫に驚き敬服した。橋上から下の地面を見下ろすと現在立っている柱の横には大きな穴が両岸に一つづつあり、ここから鳥居橋が使われる前は同じ場所に木製の橋がたっていたと考えられる。つまり、どうしてもここに橋が必要だったということがわかる。また、鳥居橋より下流のほうには日本で唯一T字型の沈下橋も見える。

 

松木さんは独特の景観には理由があり、どのような地形的要因、背景があるのかといった目で景色を見ることが楽しいとおっしゃっていた。鳥居橋に関しては、昔から橋が必要な地域であったこと、石材が手に入りやすい場所であること、また、洪水が多い場所だということが考えられると解説してくださった。ただきれいだと思うよりもはるかに鳥居橋を楽しむことができた。

 

鳥居橋を見た後は広瀬井出に向かった。前日に学芸員の櫻井さんに解説していただいた平田井堰は駅館川の水を左岸側に運んでいたのに対し、この広瀬井出は駅館川の水を右岸側に運ぶ役割を担っている。駅館川の右岸は台地であり稲作ができなかったために南一郎平によって建設された。この水路は暗渠といって外からは見えない構造になっている。また、こういった井堰は水の流れを分けるため、井堰の上と下で魚の生態系も変わってくるそうだ。橋の下から見下ろした海岸の大きな岩には一方向にひびが入った火山地形の石であり、松木さんに「数億年前の地形が見えている」といわれ規模が大きすぎる話になんとも不思議な気持ちになった。

  • 広瀬水路の起点の井堰を望む橋の上で安心院の偉人南一郎平の事跡を聞く。撮影日時: 2018:09:06 11:43:43
  • 平田井堰とともに駅館川の水を届ける役割を持つ広瀬井出。駅館川右岸に水を引くためにははるか遠くのこの場所に井堰と水路を作る必要があった。昔の人はどのようにして水を引いてくる場所を定めたのだろうか。撮影日時: 2018:09:06 11:40:35
また、松木さんは「役に立たない知識も知っていると豊かになることがあるかもしれない。」と話してくださった。興味がないからいいや、ではなく何事も話を聞き調べ知識を蓄えることでこれからの人生をより豊かにしていきたい。