リベラルアーツ&サイエンス教育ブログ

2019.01.31

  • 国東農業研修

研修旅行後レポート 並木惇也(2017年実習-23)

国東農業研修は、私にとって、「旅」そのものだった。それは観光に行くのとは違う。人間関係の輪のなかで、「旅行」では決して得ることのないだろう距離感の出会いや学びが、たった5日間の間にぎゅっと詰まっていた。今、私が胸に確信しているのは、この研修は、確かに一生に一度の体験であったということだ。

 

私がこの農業研修に参加しようと決めたのは、まさに一生に一度の経験であると考えたからだ。大学生として、研修として、農業に関わる事柄や人々との交流ができるというのは、おそらく、これきりだろう。

 

元々農業については明るいイメージがあった。一般的なイメージである、非近代的な産業であるとか、重労働であるとか、そういった考えを持つ事が理解出来ないわけではない。しかし、私にはそれ以上に、土地を耕し、作物を植えて、1を10にする。そういったイメージがあるのだ。それだけではない。人が生きるため、つまり食べていくために、自分たちの糧を自分たちが賄う。そのプリミティブさが、むしろ、現代的な「お金」に縛られた生き方や価値観からのアジールであるように感じられて、そちらの方がよっぽど人間らしい生き方なのではと考えているからだ。スローライフ、ゆっくりと生きる、という言葉がそれに当たるだろうか。

 

そういった意味で、今回の研修は非常に多くの学びがあったと思う。まず、研修を通じて感じたことは、担い手・後継者の不足という問題が農業を中心とするその根底にある、ということだ。最初に訪れた「里の駅むさし」では、年をとって畑をやるのも億劫なので耕作放棄、というパターンを問題視して、という起点があったし、地域おこし協力隊の存在も、そういった目的を持つ制度であることは明白だ。国東市のみならず、田染地域の河野忠臣さんのお話や、安心院の中山ミヤ子さんのお話の中でも、必ず担い手や地域の高齢化についての話題がでてきた。それはリスクとして語られるのではなく、現在まさに直面し、進行している。

 

ところで、今回の農業研修は本当に食べ物づくしの旅だった。大分空港に降りたって早々、上述の「里の駅むさし」で昼食を頂き、その日の夜は居楽屋「ほろほろ」で通常のメニューにはないものまで含まれた料理を、次々と頂けるままに食べた。他、詳細は各日程のレポートに譲るが、唐揚げ花ちゃんや、長廣さんや河野さん、中山さんにそれぞれ毎回食べきれない程たくさんの料理でもてなしていただけた。その時に感じたことは、おいしい、という正直な気持ちだ。どれも本当においしくて、食べたくても食べきれないことが本当に悔やまれる毎日だった。聞くと、それらの料理は、そのほとんどが(いわゆるメインに関しては全て)その地域で採れたものや、自分の畑や田んぼで収穫されたものを使っていると言う。私は、その、ふわふわつぶつぶとしたお米に、口にやわらかくうまみの拡がる豚肉や軍鶏に、こりこりと身の引き締まった魚に、みずみずしくて弾けるようなぶどうに、あのどれも大きくて甘みの強い野菜に、消費者としてではなくて、それらを食材として生み出すことのできる生産者というものの側面に強く感動した。

 

しかし、そのように感動する傍ら、旅を終える頃にはもう一方の気持ちが渦巻くようになっていた。それというのは、あの食べ物を支えているのは、それを生産する人々である。しかし、その人々は、確実に、それも危機的に減少している。その集落の平均年齢が80歳を越えていて、若者が入れ替わらない地域もあると聞いた。安心院地域では、国策としてぶどう園が作られたものの、やはり高齢化や少子化の影響で、耕作放棄地が増えてしまっているという。生産者がいなくなってしまったとき、その生産物がいかに美味であろうとも、質が優れていようとも、歴史的景観を作っていようとも、文化を紡いでいようとも、それらは産業ごと消滅してしまう。

 

農業というのは、一人でも暮らしていける術なのであると思っていた。でもそうではなく、生産者というのは積極的な意味を実はもっていて、まさしく「文化の織り手」であるのだと、私は今回の研修を通じて痛感した。そして、そこから得ることができたのは、私達は、消費者に生きて終わってはならないのではないだろうかということだ。もちろん、「織り手」は消費者なしでは生きていけない。しかし、消費者もまた、「織り手」なしではいずれ窒息することは必至である。「都市」という存在や、貨幣経済及び現代の資本主義の在り方は、「お金」に呪いめいた価値を与え、消費という行為を魔術化してきた。私達は、消費することばかりを覚え続けて、文化の担い手ではあっても、「織り手」であることを次第に忘れてきたのではないか。今私が言っているのは、皆地方へ行って第一次産業をしろ、ということではない。

 

現代においては、生き方は決して一つではないと言うことだ。選択肢は多分に用意されている。何を目指しても良いのである。生きるために、お金を得るために、働くために、生きる。そんな人生に疑問を抱いたり、疲れたりしたときは、思い出して欲しい。文化の消費者ではなく、生産者としての生き方もあるのだと。そして、農業というフィールドは特にそれらの「織り手」を求めている。

 

願わくば、このレポートが現代社会の渦に投げ込む一つの縄にならんことを。