リベラルアーツ&サイエンス教育ブログ

2017.09.19
- 国東農業研修
2016年国東研修(20)垢離場
先ほどの空木峠池を後にして、山を下る途中の垢離場に寄った。ここは昔、山伏や愛宕社で修行する人に使われていた。修行する人は7日間の水浴びで身を清め、参拝して御加護を願ったそうだ。例祭では、氏子代表者が心身を清めて祝詞を奏上し、舞錐で火を起こす神事が行われているそうだ。
そのためだろうか。深い山の間を裂くように存在する垢離場は、見るからに厳かな雰囲気だ。奔放に伸びた枝によって辺りは少し暗く、周辺との空気の違いを否応無しに実感する。しかし、それだけではない。さわっと爽やかな音を立てる木々と、チロチロ流れるせせらぎ、そして切なく鳴く蝉の声が、そこにいる者を心穏やかにさせてくれる。傾斜になっていて、丸いため池、というより水溜まりのような場所があり、大きい石から小さな石までゴロゴロ落ちていた。ここは先人が、のみで岩を刻み込んで作ったものだ。

また、その近くには道しるべになる「庚申塔」もある。ここでは幾度と無く、「世にも奇妙な事件」が起こった。ある時は川に流されて石にぶつかり、猿や鶏の飾りが欠けて無くなっても、神様の部分だけは無事だった。またある時は何者かに盗まれたが、5日後には元の場所に戻ってきた。これでは、白地の看板に赤文字で「世にも奇妙な庚申塔」と書かれてしまうのも無理はない。フジテレビで放送されるオムニバス形式のドラマのタイトル真似してる!などと言ってはいけない。

そして看板の5mぐらい上に本体、庚申塔がある。ひっそりと佇み、彫りも薄く少し不気味だ。周りは木々で覆われ、見ていて恐れ慄いてしまうような雰囲気がある。だが、そこにむしろ頼りがいを感じる。「インチキじゃない、本物だ!」という感じがする。実際に、悪疫退散、招福除災、農作物の豊作、交通安全といった効果を持っているようだ。垢離場と庚申塔を通る人々をいつも見守っているのだろうか。
山、というのは神聖なもので、人間は山に対して畏怖の念とともに憧憬を抱き続けてきた。私は山を登ったことも数えるほどしかなく、普段山と慣れ親しんでいる訳でもない。ただそんな私でも、この空木峠池や垢離場の、空気と水と生命の不思議な一体感くらいは感じ取れる。何故か、気持ちが落ち着くのだ。音に身を委ねたくなる。ずっとずっと遥か昔の人も、きっと同じように思っていた。だから、一週間身を清めれば山に入ることが許されると考えていたのだろう。山と一体化し、溶け込むことで得るものは大きいに違いない。何を得るのか、それは実際に見て、聞いて、体験して初めて分かることだ。
私はこの大分で幾度か山に入れて幸運だった。国東半島の自然と太古の歴史を肌で感じることができたからだ。あの美しい情景が忘れられない。