リベラルアーツ&サイエンス教育ブログ

2017.09.19
- 国東農業研修
2016年国東研修(16)富貴寺・河野了さんのお話

富貴寺までは少し長めの階段があり、それを上っていく。階段の両端にはいくつも石像が置かれていて、その石像や階段の両端には穴が開いていた。河野さんによると、昔はその穴にごま油と灯心を入れて火をつけていたのだという。その当時の夜、富貴寺はさぞ神秘的な様子だっただろう。また当時、平民は両端に石像がある位置までしか階段を登れなかったらしいので、さらに聖域としての風格があったのだろうなと思う。

そんな富貴寺も国の文化財になる前は、村の人たちの集会場や子どもたちの遊び場として使われるくらいに寂れていたらしい。屋根は瓦が落ち、床の板も落ちというようなボロボロの状態から現在の状態に直されたのだという。ものの価値が時代によっていかに変わるのかを考えさせられるような歴史を持った建造物だった。
富貴寺を案内していただいた後はその向かいにあるお店で昼食をとり、そこで河野さんの人生についてお話していただいた。河野さんは昭和十年生まれで、中学生の頃、田染は幼稚園から中学校までの生徒数が千人もいたという。今では田染小学校の生徒29人、中学校の生徒11人と、合わせても40人までに減ってしまっているらしいので、大分人が減ってしまったことが分かる。その当時、中学校卒業後に高校に進学したのは三、四割の生徒だけで、その他の生徒は家業(多くは農家)を継いでいたらしい。

中学校卒業後、河野さんは高校を卒業し、大学に進学して恩師となる渡辺先生に出会ったという。初めて学校に行ったときに出身を聞かれ、田染だと答えたところ、良いところに住んでいると言われて田染の事をいろいろと聞かれたのが始まりらしい。その後、渡辺先生が田染を訪れたときも道案内をしたようで、そのような経験が河野さんの人生の指針を決めたのだろうなと思う。
河野さんは田染の景観を守ったときの話もしてくださった。当時、機械で稲を植えるのに適した四角い田んぼに整備しようということになった。それにかかるお金を農家側が出さなくてもいいということだったので、昔ながらの田んぼを残さなくてはいけないと主張する人は二割ほどしかいなかったという。それでも河野さんらが行った保全活動の効果もあり、最終的には当時の市長の決断によって田染に昔ながらの田んぼが残されることが決まり、今に残る田染の景観が守られた。
河野さんは田染の景観を守ったときの話もしてくださった。当時、機械で稲を植えるのに適した四角い田んぼに整備しようということになった。それにかかるお金を農家側が出さなくてもいいということだったので、昔ながらの田んぼを残さなくてはいけないと主張する人は二割ほどしかいなかったという。それでも河野さんらが行った保全活動の効果もあり、最終的には当時の市長の決断によって田染に昔ながらの田んぼが残されることが決まり、今に残る田染の景観が守られた。

その景観のおかげか、現在、本当に田舎が好きだという人が五人ほど移住してきているらしい。それぞれの職業はまちづくり会社の人が二人、東京大学の法学部を出て現在高校生を生徒に塾をやっている人、民宿をやっている人、保険会社で働いている人がいる。職業はさまざまだが、どの人も田染で働いていき、田染で生きていくということをしっかりと考えているのだなと思う。また、そのように外から人が集まってくるだけの魅力的な田染と、その場所を守った人たちの努力がそれだけすごかったのだろう。