人文学部ゼミブログ

2018.11.06

  • 人文学部
  • 日本・東アジア文化学科

「情報の質的負荷」って?

ブログ投稿者:日本・東アジア文化学科 教授 黒岩 高

今年度の「中国史演習」は、『清史稿』という史料に収められている文・武官の伝記の講読を中心に行っています。前期は、アヘンの没収・処理で有名な漢人官僚・林則徐の伝記を、後期はモンゴル旗人(貴族)の僧格林沁(センゲリンチン)の伝記を取り上げました。

さて、『清史稿』は清代の官僚の報告書などをもとに編纂されていて、伝統中国文で書かれていますので、句読点付きの版本を使っているとはいえ、読み進めるのは結構手強いです。実は着任当初、一度はこうした史料をゼミで取り上げたのですが、色々な意味で惨憺たる結果で、3年ほどでやめてしまったという経緯があります。

復活の契機になったのは、温泉旅行でした。私には、少年期から親交が続いている友人が何人かおり、スケジュールを調整して温泉旅行に出かけることがあります。年に一回ぐらいでしょうか。その際に、「大学に何を求めるか」といったことが議論のテーマになったりします。大学の教員は私一人なので、彼らの舌鋒の鋭さにいつもタジタジです。しかし議論を重ねると、驚くべきことに彼らの意見がピタリと一致しました。それは、「若い人たちに情報の量的、質的負荷をもっとかけて欲しい」というものでした。

しかし、「量的負荷」はわかる気がしますが、はたして「質的負荷」とは一体何のことでしょう?

よく聞いてみると、どうやら「やったことがないもの」や「なじみのないもの」で、なるべく高度なものを指しているのだということがわかりました。そして、それらに直面した時に「とにかくやってみる」という姿勢、そして最初はダメでも「上達方法を模索する」姿勢を養成して欲しいということだったわけです。

彼らの業種は金融、非鉄金属、メーカー、シンクタンク等と様々ですが、各々の分野で「成功を収めた人々」でもあります。そうした人たちの共通見解であれば、ある種の「社会的要請」として一考に値しそうです。一方、私は歴史研究者ですから、史料を通じて「他の人が知らない生の歴史に触れて欲しい」という思いがあります。この二つを結びつけるものとして、伝統中国文の史料を再びゼミで取り上げようと決心したのでした。

着任時と違って、今度は「確信犯」です。導入を少し工夫し、助言を行うタイミングを増やしました。するとどうでしょう、積極的に質問をしてくれることもあって、中には「学部生時代の私よりも読めるかもしれない...。いや、読める..」そんな学生さんもチラホラ。やってみるものです。

しかしながら、『清史稿』は編纂史料ですから、それだけでは「他の人が知らない生の歴史に触れる」楽しさには一歩およばず、もとになった官僚の報告書等の一次史料にたどり着かねばなりません。それには1年間の履修ではどうしても足りない。2年ぐらいは続けて履修してほしいなあ、と思う今日この頃です。