人文学部ゼミブログ

2018.06.04

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  • 日本・東アジア文化学科

「最後の一文」が気になる

ブログ投稿者:日本・東アジア文化学科 准教授 戸塚 学

「最後の一文」がどうも気にかかる、という小説があります。先日の「日本現代文学演習」の授業で読んだ永井荷風の短篇もそうした小説の一つでした。

 

物語は語り手の「自分」が新橋芸者の手踊りを見る場面から始まります。友達の新聞記者に促されて会場を出た「自分」は、その友達から今の手踊りに出演していた一人の芸者の噂話を聞かされます。

 

小鍛冶と名乗るその芸者は、かつていかがわしい水商売をしていた頃から男性関係にかけては凄腕の女性でした。その新聞記者も小鍛冶から金を絞りとられた男のうちの一人で、彼女はそうして男たちから巻きあげた金を元手に当時新興の花街だった新橋の芸者にまで成りあがります。上品な生活振りを演出するために小鍛冶の部屋に据えられた「生々しい色をした新しい家具一式」が男の眼を通して提示され、彼女の成りあがりの証を読者も眼前に見せられるかのようです。

 

小鍛冶のサクセス・ストーリーを語り進めた男は、彼女を現代の世相を映し出している「現代主義の権化」と呼びます(この作品は大正元年に雑誌に発表されました)。自身の目的の達成のために手段を選ばず、相手の男性に惚れ込むことなどない女性として小鍛治は語られます。江戸時代の歌舞伎や浄瑠璃に登場する古きよき「名妓」、芸や色香に加えて義理や情などを備えた芸者とは異なる新しい型の女性の姿が、男の皮肉な視線に染められて提示されるのです。

 

ところが小説の末尾にはこんな一文が置かれています。

 

《友達はさも痛切にえぐったと云はぬばかり其の調子さえ強めて語ったが、然し自分は最初から、たいした興味をも感ぜずに聞いていたので、別に何とも思わずに別れて帰った。》

 

「たいした興味をも感ぜずに」男の話を聞いたという「自分」の無関心な態度が提示されて小説は閉じられます。それまでテンポよく語られてきた話の熱に、さっと冷や水が浴びせられるのです。

 

教室でも小説のこのような終わり方をどう解釈するかという点に議論が集中しました。

 

ある学生は、成功への階段を昇る小鍛冶に対して記者の地位が一貫して変化しないことに注目し、最後の一文は記者の小者感を際立たせて小鍛冶の評価を押し上げていると指摘します。別の学生は「自分」もまた批判の対象になっていて、わかったような態度をとる世間の男性全てが揶揄されていると述べます。別の学生は「現代主義」というテーマに主眼を置いて考えると、やはり小鍛冶のような女性は批判されていると読むべきだと反論します。

 

どの主張にもそれぞれ頷くべき点があるように思われ、解釈はなかなか一つの方向に定まっていきません。ですが、すぐれた文学作品はそのように複数の読み方を誘発する幅を内包しているものです。どのような視点をとるかによって、作品から開けてくる風景は様々に変化します。

 

文学作品を読み解く楽しみの一つはこの点に求められます。光学プリズムによって一つの光から様々な色が引き出されるように、読者は作品の様々な細部に注目することで、作品が開示する多様な世界の姿を眺めることができるのです。

 

とはいえ、思いつきの読みをばらばらに並べるわけではなく、受講者は作品の一言一句に注意を研ぎ澄ませ、構造や形式を捉えた上で総合的に解釈を行います。発表者は同時代状況や先行研究、同時代評などを調べて議論に奥行きを与えます。その上で各受講者の多様な視点からの読みが折り重なり、一人では見えなかった作品の読み方が、教室という共有された空間で浮かび上がっていきます。

 

ところで、最後の一文から改めて作品の冒頭に配された題名に立ちかえってみましょう。この作品の題名は「名花」です。名花とは華やかな芸者を花にたとえて呼んだ一般名詞ですが、ここでは小鍛冶が過去に名乗っていた「花鳥」の名の一部「花」を含む題にもなっています。だとすれば、作中人物の名の一部をわざわざ題名に織り込むこの小説は、当の女性をどのように位置づけていることになるのでしょうか‥‥。

 

みなさんも、この作品が収められた永井荷風の連作集『新橋夜話』(岩波文庫他)を手にとって、「最後の一文」が提示するものに考えをめぐらせてみませんか?