人文学部ゼミブログ

2018.01.22

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  • 日本・東アジア文化学科

千年以上前の歌をいかに読むか

ブログ投稿者:日本・東アジア文化学科 准教授 福田武史

専門演習では『万葉集』の歌を学生と一緒に読んでいます。奈良時代にはひらがなもカタカナもまだありませんから、和歌はすべて漢字で表わされました。たとえば「如是耳有家類物乎芽子花咲而有哉跡問之君波母」というように。とても日本語の歌には見えませんよね?『万葉集』の歌を読むというのは、この漢字の羅列を日本語の歌として読めるようにすることから始まります。注釈書や辞典を参照しながら和語に復元する作業はパズルを解くようなおもしろさがあります。

上の歌を現代の漢字かな交じりの形に直すとすれば、

 

かくのみに ありけるものを 萩の花 咲きてありやと 問ひし君はも

 

となります。私の大好きな歌の一つです。作者は余明軍という人物で、仕えていた大伴旅人が亡くなった悲しみを詠んでいます。

 

このようにはかないものであったのに、「萩の花は咲いたかな」と尋ねたあなたよ

 

特別なことをするわけでもなく、大切なあの人は何気ないことばを残して不意にいなくなってしまった。そして、思い出されるのは特別なイベントなどではなく、花を愛した人の普段通りのことばだというのです。これからもずっと平穏無事に続くと思っていた日常が突然失われたことの痛切さが千年の時を超えて私たちの胸にせまります。時間的にも空間的にも遠く離れた人々と心を通わせることができるのが文学研究の醍醐味です。

千年前の作品が読めるというのはとても驚異的なことである一方、十分には理解できないことにも目を向ける必要があります。「問ひし君はも」の「はも」は奈良時代以降ほとんど使われなくなったことばです。辞書をひくと、哀惜をあらわす詠嘆、といった説明がありますが、これで納得できるでしょうか。似たような助詞に「はや」があり、これも辞書では、哀惜や詠嘆、とあるばかりです。それでは「はも」と「はや」にはどのような違いがあるのか……。「問ひし君はも」に込められた心情を私たちは究極的には理解できないのかもしれません。しかし、そこで諦めずに、用例を広く集めてニュアンスや用法の違いをみんなで考えて議論し、少しでも理解を深めることを本演習は目指しています。