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2026.06.30

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ヨーロッパ文化学科 小森 謙一郎 教授 著『「反セム」の思想史──持続するナクバの起源について』が刊行されました

ヨーロッパ文化学科 小森謙一郎 教授 の単著『「反セム」の思想史──持続するナクバの起源について』が刊行されました。

概要

箱舟で一族と動物たちを洪水から救ったノアの話はご存知かと思います。「創世記」9章は、そのノアの3人の息子から全人類が出たとしています。3人の息子とは、ヤフェト、セム、ハムです。伝統的な解釈では、ヤフェトの子孫がヨーロッパ人、セムの子孫がアジア人、ハムの子孫がアフリカ人、とされてきました。
 
ところで「創世記」9章では、ハムの無礼が原因で、その息子カナンが呪われます。カナンの子孫(つまりハムの子孫)はヤフェトやセムの子孫の奴隷となれ、とノアが言うのです。15世紀くらいになると、アフリカの黒人たちがヨーロッパ人によって本当に奴隷化され、奴隷貿易がはじまります。これにより商業資本主義が大きく発展しました。ヨーロッパの人々はノアの言葉が実現されたかのように感じたことでしょう。
 
しかし、19世紀になると奴隷貿易と奴隷制は段階的に廃止され、これと前後して商業資本主義も産業資本主義に移行していきます。それはまたイギリスとフランスが植民地を拡大していく時期でもありました。資本主義の進展に伴い、ハムの子孫たるアフリカの黒人だけでは労働力が足りなくなりますが、その不足を補う人々をヨーロッパは見つけたわけです。もちろんアジアの人々であり、セムの子孫とされてきた人々です。
 
とはいえ、「創世記」9章で呪われたのはハムとその子孫だけで、セムとその子孫は逆に祝福されています。そこで登場するのが、聖書の記述に依拠しない人種思想です。ヨーロッパ人に比べればアジア人も劣っているとみなす見方であり、フランスの言語学者エルネスト・ルナンは19世紀半ばに実際そうした言説を唱えています。ヨーロッパ人は軍人の人種であり、支配する人種である。黒人やアジア人は軍人性を欠いており、支配される人種である、と。
 
本書では、こうしたルナンの言説を「反セム」の起源に位置づけています。ルナンにとって「真のセム人」とは「トルコ人」(オスマン帝国の住民たち)でした。コーランを通じてセム語としてのアラビア語に結びつく人々です。「イスラームとはヨーロッパの最も完全な否定なのです」とルナンは書いています。こうした言説によって、フランスによる北西アフリカの植民地化が正当化されたのでした。
 
他方、セム語にはヘブライ語も含まれます。伝統的には、ユダヤ人もセムの子孫(つまりアジア人)とみなされてきました。ルナンは同時代のユダヤ人をヨーロッパ化した人々と考えていましたが、そのユダヤ人をやはり「オリエント系」とみなして差別する傾向が普仏戦争後の統一ドイツで生まれます。それが今日まで残る「反セム主義」です。日本語ではもっぱら「反ユダヤ主義」と訳されています。
 
日本語でいう「反ユダヤ主義」は、差別対象がユダヤ人であることを重視した分かりやすい訳語です。しかし、この訳語にはまさに「セム」が欠落しており、以上に述べた歴史的・宗教的・政治的経緯がすべて見失われてしまいます。欧米圏では今なお「反セム主義」という語が主流であることを考えると、この欠落によって失われるものは少なくありません。
 
もっとも、欧米圏でも「反セム主義」という語を依然として用いながら、その指示対象はほぼユダヤ人に限定されています。そこには本来アラブ人も含まれるという見方に立ち戻る人はほとんどいない、というのが現状です。なぜでしょうか?
 
ホロコーストを引き起こしたナチス・ドイツの「反セム主義」が、もっぱらユダヤ人を対象としていたからです。そして1980年代半ばに映画『SHOAH』と歴史家論争を通じて、ホロコーストを「唯一無比」の出来事とみなす考え方が形成されたからです。さらに、この考え方が1990年代以降の「記憶の政治」を介して、日本を含む西側諸国に定着したからです(この間、ドイツ再統一、冷戦の崩壊、欧州統合といった出来事が続きます)。
 
この過程では、ルナンの言説や「トルコ人」に対するその蔑視などは、完全に忘れ去られています。1980年代以降、欧米圏のユダヤ人差別については、一定の改善があったと言えるでしょう。しかしムスリムを「ヨーロッパの最も完全な否定」とみなして敵視する見方は、ほぼ手つかずのまま放置されて現在に至ります(2001年9月11日の出来事は、こうした見方を逆に強化することになりました)。
 
こうしてみると、歴史家論争の勝者たるユルゲン・ハーバーマスが、2023年10月以後のガザの惨状を前にして、なおイスラエルを擁護したのも当然のことだった、と言えるかもしれません。
 
本書は、以上の観点から「持続するナクバの起源について」考察し、ハーバーマス、アーレント、ツェランを通じて、ヨーロッパにおける「反セム」の射程を探究する試みです。
 

著者より一言

本書の第一章では、ハーバーマスの目には映っていなかったであろうことを検証しています。歴史家論争の争点はどこにあったのか、論者たちはエリック・ウィリアムズ『資本主義と奴隷制』やエメ・セゼール『植民地主義論』なども参照することもできたのではないか、奴隷制にも植民地にも触れていないハーバーマスの公共圏論に果たして落度はなかったのか、といった問いを立てています。
 
またこれらの問いについて考えるための前提として、ドレフュス事件からヴィルヘルム2世の「世界政策」を経てアウシュヴィッツの「ムーゼルマン」に至るまで、「反セム主義」がどのように展開していったのかを歴史的に考察しています。
 
「反セム主義」とは、トルコ人やアラブ人に対する潜在的な劣等視を基盤とし、「成り上がろうとする」ユダヤ人も結局のところ彼らと同じ「セム人」だとみなす二層構造的な人種差別の枠組みであった、というのが本書の見解です。
 
しかし、アラブ人に対する潜在的な劣等視という基盤はいつしか忘れ去られ、逆に「反セム主義」の対象をホロコーストの被害者たるユダヤ人に限定する見方が、映画『SHOAH』や歴史家論争によって不動のものとされます。そこから生まれてくるのが今日よく見られるレッテル、つまりイスラエル国家に対する批判をも「反セム主義」とするレッテルです。
 
こうしたレッテルに対する本格的な戦いは、2012年にジュディス・バトラー『分かれ道』とギュンター・グラス『言われねばならぬこと』によって口火を切られたと言えるでしょう。同年公開の映画『ハンナ・アーレント』(マルガレーテ・フォン・トロッタ監督)もその渦中にあります。
 
前年の2011年にイスラエルでは通称ナクバ法が可決され、パレスチナ人は自分たちの「災厄」を追悼することさえ制限されるようになっていました。私が翻訳した別の本『ホロコーストとナクバ』も、こうした一連の動向のなかから生まれてきた本です。
 
なお、レッテルとしての「反セム主義」は、2016年にIHRAの定義によって国際的に正当化され、これに反対する学者たちが2020年に「エルサレム宣言」を出しています(詳細は拙論「持続するナクバ、反復されるホロコースト──現状についての一考察」を参照)。
 
本書の第二章では、こうした流れを紹介した上で、1967年以後のハンナ・アーレントがイスラエルとどう向き合ったのか、という問題に着目しています。
 
エリザベス・ヤング=ブルーエルによる有名な『アーレント伝』は1982年に刊行されています。「そこではアーレントが熱烈なシオニストだったことにされている」とエドワード・サイードは1985年に指摘しました。1967年と1973年、つまり第三次と第四次の中東戦争時に、アーレントは過激派の「ユダヤ防衛同盟JDL」に寄付をした、と伝記に書かれていたからです。
 
JDLの創設者メイル・カハネは、パレスチナ人やアラブ人の軍事的排除を強硬に主張した人物で、現在のイスラエル政府の閣僚たちもその影響を大きく受けていると言われています。アーレントのように著名な学者がこの組織に寄付していたとすれば、昨今のイスラエル政府の振る舞いにもいわばあらかじめお墨付きが与えられていたことになるでしょう。
 
サイードの指摘を受けたヤング=ブルーエルは、アーレントが寄付したのは別の団体だった、と誤りを認めました。しかし訂正された『アーレント伝』の第二版が刊行されたのは2004年です。つまり20年以上ものあいだ、テロをも辞さないカハネ主義をアーレントは支援していた、ということになっていたわけです。
 
そのため、アーレントは差別主義者だったとか、根本的にシオニスト的・植民地主義的だった、という見解が流布しています。他方、同化ユダヤ人としてのアーレントがステレオタイプな偏見、つまり人種主義的な認識の枠組みを持っていたことは事実です。1967年の戦争を称賛したことも同じく事実です。
 
しかし、1940年代に純然たるユダヤ人国家の建設に反対し、ユダヤ人とアラブ人の連邦制を提言したこと、1960年代初頭のアイヒマン裁判については、ホロコーストを政治利用する「見せ物」だと主張したこと、1969年には「イスラエルの生き残り」に固執する作家ナタリー・サロートを「反省のないユダヤ人」と呼んだこと、そしてこの間ずっとシオニズムに対する批判的態度を崩さなかったこと、これらのこともまた事実です。
 
以上を踏まえ、第二章の最後では、「アーレントが書くべきだったであろうこと・書くことができたであろうこと」を検討しています。
 
第三章では、1967年の戦争をやはり肯定的に捉えた詩人パウル・ツェランに着目しています。ツェランは両親をウクライナの強制収容所で殺害され、自身も強制労働に徴用された過去を持つユダヤ詩人です。「死のフーガ」はとくに有名です。
 
そんなツェランは詩「思い浮かべよ」でイスラエルによる1967年6月の先制攻撃を擁護しました。1969年秋にはみずからイスラエルを訪れて、「世界に開かれた偉大なポエジーの一回性を見た」と述べています。「自分が対話したのは、人間的なもののなかで自己を主張しようとする、落ち着いた-確信に満ちた決意だった」、と同胞たちに語ったのです。しかし、その半年後、詩人はセーヌ川に自分の身を投げることになります。
 
この間、ツェランが哲学者マルティン・ハイデガーと出会っていたことは重要です(両者は少なくとも3回会っています)。後年、フィリップ・ラクー=ラバルトやモーリス・ブランショは、ナチスに加担した過去を持つハイデガーが、詩人に対して「謝罪」の言葉を発せず、「絶滅」について沈黙したことを、ツェランの絶望と自死に結びつけて考えました。映画『SHOAH』の公開や歴史家論争があった1980年代半ばのことです。
 
しかし、ツェランはラクー=ラバルトやブランショの想定よりも深くハイデガーのことを知っていました。そして当時の詩人にとっては、ハイデガーの思索よりもイスラエルの存在の方が重要だったはずです。そのことは、妻ジゼル・レトランジュや元恋人のインゲボルク・バッハマン、あるいはイスラエル在住の同郷のユダヤ人女性イラーナ・シュムエリらとの往復書簡(いずれも2000年代に刊行)から読み取れます。
 
こうしてみると、ハイデガー的な言葉遣いでイスラエルを擁護したことは「取り返しのつかない過ち」だった、とツェランは思ったかもしれません。ハイデガーは「ドイツ的大学の自己主張」という演説でナチスを支持しましたが、ツェランもまた「人間的なもののなかで自己を主張しようとする決意」をイスラエルで見たと述べています。しかし「世界を真正なものに高める」(カフカ)という観点からすると、自分の言葉は「赦しえぬもの」だったと、詩人はどこかで考えるに至ったのではないでしょうか。
 
他方、ツェランは「百歳まで生きることだってありうる」とシュムエリに書いています。もしその言葉通りに2020年まで生きることができたとしたら、すべてのことに気づいた上で、「死のフーガ」を書き直すこともできたかもしれません。ドイツ人を示唆する「金髪のマルガレーテ」とユダヤ人を示唆する「灰髪のズラミート」に加えて、アラブ人を示唆する「灰髪のシェヘラザード」を歌うこともできただろう、ということです。
 
いずれにせよ、今日またとなく重要なのは、ユダヤ人とパレスチナ人の「災厄」の記憶を共に保つことでしょう。またこれを奴隷制や植民地主義の歴史と重ね合わせて考察し、未来への展望を拓くことでしょう。その過程では、国民国家と資本主義の現在を考え直すことが不可欠になるでしょう。
 
本書がそのささやかなきっかけになれば幸いです。

参考情報