自然科学・身体運動科学分野活動ブログ

2022.11.09

  • 国東農業研修

宇佐の戦跡 横田仁 (国東-2022-21)

ブログ投稿者:基礎教育センター 教授 丸橋珠樹(Professor Tamaki MARUHASHI)

 5日間の国東半島農業研修も、気づけば最終日。この日は松木さんの案内で、宇佐の戦跡と宇佐神宮を訪ねた。はじめに向かったのは、宇佐海軍航空隊の戦跡だ。昭和14年、田んぼがあった土地を埋め立てて、海軍の練習航空隊「宇佐海軍航空隊」が開隊した。戦争ののち、宇佐海軍航空隊の土地は元の持ち主に返還され、現在では多くの部分が田んぼに戻っている。松木さんの案内が無ければ、気づかずに通り過ぎてしまうだろう。例外的に、取り壊しが難しいコンクリート製の建物は残され、歴史を今に伝えている。写真の建物が、落下傘整備場(と伝えられる建物)だ。内部には吹き抜けの部分があり、そこで落下傘を広げ、整備していたと考えられる。しかし、詳しい記録は残っていない上、落下傘整備場にしては造りが強固すぎるため、他の用途に使われていたのではないかとの指摘もあるという。
 
 宇佐の戦跡は、戦後の農民の方々の努力もあり、ほとんど当時の面影を残していない。しかし、ところどころに生々しい痕があった。ここでは二つを紹介したい。一つ目が、掩体壕である。掩体壕とは、さまざまな物資や人員を、敵の攻撃から守るために山に掘った横穴や、コンクリートなどで造った横穴状の施設を指す。宇佐の土地にはコンクリートで造られた航空機格納用の掩体壕が残されている。これらは非常に強固に造られており、取り壊すのが難しい。そのため、残されているというよりは、残ってしまったという方が正確かもしれない。中には、海から引き揚げられた実際の零戦のエンジンを用いて、展示施設のように利用されているものもあり、松木さんに案内していただいた。
 
 二つ目が、先述した落下傘整備場に残る弾痕だ。これは、戦争末期に行われた宇佐空襲の際の、機銃掃射の痕である。また、近くには「爆弾池」と呼ばれる場所がある。これは、爆撃された際に地面に大きな穴が空き、そこに水が溜まってできた池である。これらの戦跡は、当時使われた兵器の威力を物語っている。これほどまでに威力の強い兵器が、人間を相手に使われたと思うと、恐ろしさを感じた。同時に意識するべきなのが、宇佐で訓練を受けた若者たちが、戦争初期に真珠湾へと向かったという事実だ。戦争末期には特攻隊が組織され、宇佐海軍航空隊の若者たちが沖縄へと出撃していった。彼らもまた、アメリカを相手に攻撃を行った。ここで考えるべきは、どちらが悪いかということでなく、戦争が起きた際は双方の人命が軽んじられるということではないだろうか。少なくとも、私はそう感じた。
 
 松木さんと話して、心に残っていることがある。それは「歴史を感情抜きで冷静に捉え、考えることができるようになるには、時間がかかる」ということだ。先の戦争を感情抜きで冷静に捉えるには、まだ時間がかかる。その視点からすると、戦争の記憶を伝える文献や記念碑を見ても、以前とは見え方が違ってくる。。
 
  • 落下傘整備場の弾痕。機銃掃射の威力を物語る。撮影日時: 2022:09:05 10:12:00
  • 零戦を格納していた掩体壕とその周りの宇佐航空隊記念碑など戦争遺構が整備されている。撮影日時: 2022:09:05 10:46:29